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地元の戦争遺跡を歩く
10代の参加者 「知らなかった」と驚き

牛田さん自由学園にて
戦中は床板をはがして軍需工場にされた女子部体操館で、牛田さん(中央)の説明を聞く参加者たち=東久留米市学園町の自由学園で
 5月13日、東久留米市の戦争遺跡を徒歩で訪ねる「東久留米の戦跡めぐり」が開催され、同市をはじめ杉並区や西東京市の10代から80代の市民29人が参加した。「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」事務局長の牛田守彦さん(45)が、案内役を務め、元戦闘機製作工場の一部で現存する建物や勤労動員中に米軍の空爆で亡くなった女学生らの慰霊碑がある自由学園など、地元の戦争遺跡をめぐった。  【取材記者・木瀬貴吉】


東久留米で市民団体が開催


 主催したのは、東久留米市の市民団体「前沢・南町九条の会」で、事務局長の矢澤健司さん(65)によると、2006年1月の発足以降、東京大空襲・戦災資料センター(江東区)を訪ねる企画などを続けている。

 今回は、牛田さんの講演会を昨年に開催したことから、実際に市内を歩いて戦争遺跡を検証することにしたという。初めての試みだが、口コミやインターネットで情報を知った人たちが集まり、中には青森県から参加した人もいた。

 現在は遊歩道に


 午前9時すぎにひばりヶ丘駅を出発した一行は、まず西東京市谷戸町の(有)岡田食品加工の社屋を見学。

 ここは、戦中に中島飛行機武蔵製作所(武蔵野市)で造られた戦闘機用エンジンを試運転する工場で、同製作所で現存する数少ない建物だ。

 その後、東久留米市の「たての緑道」を散策。これは、軍需用の鋳物工場で、現在の住友重機械工業の敷地にあった中島航空金属田無製造所に砂を運ぶため、東久留米駅と結ばれていた引き込み線の跡だ。軍命令で住民の土地を強制的に取り上げ、多くの朝鮮人労働者を使って1944年に建設されたという。

 また、同市学園町の自由学園では、戦中に軍需工場として使用された女子部体操館や、勤労動員中に米軍の空爆で亡くなった学生らを慰霊する石碑などを見学し、東久留米駅までの道のりを歩いた。

 空襲招いた工場

 牛田さんは、国内一の生産量を誇った中島飛行機武蔵製作所の存在が、多摩地域への空襲につながったと説明する。

 東久留米の農村地帯に数多くの爆弾が投下された45年4月2日の空襲も、中島飛行機を狙った空爆の余波による。夜間だったこともあり、同工場を特定できなかった米軍機が、やみくもに250キロ爆弾を投下したことが、戦後に公開された米政府の公文書などから推測できるという。


 現在は緑の多い遊歩道となっている旧引き込み線跡などを歩いた同市内の薗部良さん(17)は、「10万人が亡くなった東京大空襲のことは知っていたけれど、こんな身近に戦争の傷跡があるとはまったく知らなかった」と驚いた様子だった。



 牛田さんには、西東京市や東久留米市の戦争遺跡を案内した著書「戦争の記憶を武蔵野にたずねて 増補版」(共著、ぶんしん出版)がある。184ページ、945円。

 問い合わせは(株)文伸(TEL 0422-60--2211)へ。
東久留米戦跡地図

履歴
胸張って、最高の文献「橋文太郎と民族学博物館」発行(2008年6月11日)
田無ばやしに助成金(2008年5月28日)
50年ぶり再開 郷土資料室ジオラマと制作者ら(2008年3月12日)
甦る、田無築いた文化人「賀陽玄節」の編集本、発見(2008年1月30日)
医師の体験記「市民の手で復刻しよう」―西東京市(2007年6月20日)
地元の戦争遺跡を歩く―東久留米で市民団体が開催(2007年5月23日)
「盃には物語がある」西東京市の収集家が本に(2007年3月14日)
「地域見直す起爆剤に」西東京市・下保谷の住民懇談会が冊子を発行(2007年2月14日)
平和観音がタイムスリップ… 西東京の空襲を絵本に(2006年10月25日)
雑木林再生の活動記録(2006年8月2日)
東大農場・演習林の生きものたち



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