賀陽玄節(1790〜1854年)に関しては、医術修業で諸国をめぐっていたところ、村に医者がいないのを憂えた名主、下田半兵衛から請われて田無に残ったのが分かっている。寺子屋をしていたとも見られ、書にも長けていた。
出身は岡山で、元の名を片伊勢東仙といい、岡山藩主の侍医を務めていたのが記録にある。これについては、賀陽家の親戚で郷土史研究家でもある下田五郎さんが、15年ほど前に調べている。ただ、なぜ侍医を辞め、田無で「賀陽」を名乗ったかは、今のところはっきりした史料がない。
田無神社の賀陽濟(わたる)宮司は、「古文書研究会のみなさんのおかげで、玄節が地域発展に力を尽くした人物だったと分かり、うれしく思っています」と話している。
なお、「胃嚢録」は写しが冊子になっており、市の図書館で閲覧できる。 |
「胃嚢録」の写し=西東京市中央図書館所蔵 |
胃嚢録 A5判ほどの和紙、約150枚に、「六諭衍義」「六諭衍義大意」「内宮外宮之辨」「新田大明神略縁起」「おあん物語」「童蒙みちびき草」「三哲小伝序」「玉鉾百首」「籌海私議」の全9編を収録している |
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