西東京・東久留米・小平・新座から発信する生活情報
西東京エリア情報
地域社会 伝える
甦る、田無築いた文化人
田無神社
宮司のルーツ
賀陽玄節の編集本、発見

 田無神社の宮司を代々務める賀陽(かや)家の先祖、賀陽玄節の編集した本の存在が、西東京市の市民グループ「古文書研究会」によって明らかになった。その内容から、幕末期に医師として生きた玄節が、田無の人々の健康や教育のために尽力していた姿が見えてくる。【取材記者・谷 隆一】

「古文書研究会」の調査で
読み取れる地域への思い

 発見された本は「胃嚢録(いのうろく)」。人生の教訓や、伊勢神宮の解説、国学の先覚者の紹介、世情など、全9編を収めている。嘉永5(1852)年編。

  地域の人たちの勉強用に編集されたもののようで、子供向けの作品も2編収まる。書名は、「胃に応えるくらいの貴重なものを録した」という意味に読み取れる。

  同書は、京都大学にある、医学書を集める文庫「富士川文庫」に、貴重図書として1冊だけ保管されていた。「西東京市古文書研究会」が見つけた。

「古文書研究会」メンバーと田無神社の賀陽濟宮司(右端)=田無神社で(右から2人目が同会代表の木山碩夫さん)



田無神社で保管されている賀陽玄節の像(嶋村俊表作、木彫)=冊子「田無神社 本殿の美」から転載

 発見に至ったのは、同会代表の木山碩夫さん(81)が、田無神社の代々の宮司の名が「賀陽」ということに疑問を持ったのが始まり。木山さんは岡山県出身で、「賀陽」は地名になるなど岡山県では豪族の氏として知られている。なぜ、岡山の豪族と田無神社の宮司の姓が同じなのか。関心を持って調べてみたところ、岡山大学附属図書館の協力もあり、2006年夏に「胃嚢録」を見つけることができた。
 

 同会では、それを会員7人で約1年かけて精読。木山さんは、「子弟教育から成人教育に至るまで、田無の人々のことを考えた、深い内容の本。特に子供への思いが感じられ、玄節という人が、愛情にあふれる立派な文化人だったと想像される」と話す。

  賀陽玄節(1790〜1854年)に関しては、医術修業で諸国をめぐっていたところ、村に医者がいないのを憂えた名主、下田半兵衛から請われて田無に残ったのが分かっている。寺子屋をしていたとも見られ、書にも長けていた。
 
 出身は岡山で、元の名を片伊勢東仙といい、岡山藩主の侍医を務めていたのが記録にある。これについては、賀陽家の親戚で郷土史研究家でもある下田五郎さんが、15年ほど前に調べている。ただ、なぜ侍医を辞め、田無で「賀陽」を名乗ったかは、今のところはっきりした史料がない。

  田無神社の賀陽濟(わたる)宮司は、「古文書研究会のみなさんのおかげで、玄節が地域発展に力を尽くした人物だったと分かり、うれしく思っています」と話している。

  なお、「胃嚢録」は写しが冊子になっており、市の図書館で閲覧できる。

「胃嚢録」の写し=西東京市中央図書館所蔵
胃嚢録 A5判ほどの和紙、約150枚に、「六諭衍義」「六諭衍義大意」「内宮外宮之辨」「新田大明神略縁起」「おあん物語」「童蒙みちびき草」「三哲小伝序」「玉鉾百首」「籌海私議」の全9編を収録している

履歴
胸張って、最高の文献「橋文太郎と民族学博物館」発行(2008年6月11日)
田無ばやしに助成金(2008年5月28日)
50年ぶり再開 郷土資料室ジオラマと制作者ら(2008年3月12日)
甦る、田無築いた文化人「賀陽玄節」の編集本、発見(2008年1月30日)
医師の体験記「市民の手で復刻しよう」―西東京市(2007年6月20日)
地元の戦争遺跡を歩く―東久留米で市民団体が開催(2007年5月23日)
「盃には物語がある」西東京市の収集家が本に(2007年3月14日)
「地域見直す起爆剤に」西東京市・下保谷の住民懇談会が冊子を発行(2007年2月14日)
平和観音がタイムスリップ… 西東京の空襲を絵本に(2006年10月25日)
雑木林再生の活動記録(2006年8月2日)
東大農場・演習林の生きものたち



Copyright (C) 2005〜2006toukoutsushin. All Rights Reserved